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短歌と塩尻

塩尻市は、多くの歌人が生まれ、集った「短歌の里」です。
まちには歌碑が建ち、幅広い年代の皆さんが短歌づくりに親しんでいます。 毎年秋の「全国短歌フォーラムin塩尻」は、全国から作品が投稿され、活況を呈します。 短歌は、塩尻市の文化として根づき、学校の授業やサークル活動などでも、短歌づくりが活発に行われています。 皆さんも「短歌の里」の源流に触れ、このまちの文化である短歌に親しんでみませんか。

短歌と出会う

塩尻短歌館

塩尻短歌館

塩尻市の短歌文化を象徴する場所として、塩尻短歌館があります。 塩尻ゆかりの歌人たちの作品を展示しているほか、著名な歌人を招いて おこなう「短歌大学」や、短歌に親しむさまざまな催しを開催しています。

太田水穂歌碑

太田水穂歌碑

命ひとつ露にまみれて野をぞゆく
はてなきものを追ふごとくにも

この短歌は、塩尻出身の歌人、太田水穂(明治9年~昭和30年)の作です。
「露にまみれて」には、汗まみれ、土まみれで、ひたすら理想を追い求め
て歩んできたという思いが感じられます。
塩尻短歌館から続く遊歩道を進むと、静かな松林の中に、この歌を刻んだ
歌碑がたたずみ、現代の人々にも共感を与えています。

太田水穂歌碑

広丘駅

短歌の里の玄関口となるのは、JR広丘駅です。
本棟造りをイメージした駅舎に短歌のパネルが掲げられ、
駅前には、和歌を詠む十二単の女性がかたどられた街路灯が並ぶなど、
訪れた人に、短歌にゆかりのある地であることを印象付けています。
周辺には歌碑が立ち並ぶ「短歌公園」が整備され、散策しながら気軽に短歌に触れることができます。

この他に、市内には各所に太田水穂、島木赤彦、若山喜志子をはじめとする先人たちの歌碑が建立されています。
皆さんも、塩尻市で短歌に出会ってみませんか。
塩尻市は、歌人たちが築いた「短歌の里」を大切に、未来へとつないでいきます。

ゆかりの歌人

太田 水穂

太田 水穂

太田 水穂おおた みずほ

明治9年-昭和30年
歌人
広丘村(現塩尻市広丘原新田)生まれ
本名貞一

長野師範に進学、島崎藤村に傾倒する。島木赤彦(久保田俊彦)とは同級生であった。 卒業後、革新和歌団体「この花会」を和田の地に結成し、松本平を支配する保守的桂園歌人に対抗して信 州文壇に大きな刺激を投じた。この時、窪田空穂と親交をもつ。 明治41年上京、大正四年歌誌「潮音(ちょうおん)」を創刊し、歌人、研究者の道を歩む。象徴的観想の作 風。「短歌のふるさと塩尻」の中心人物の一人。

若山 牧水

若山 牧水

若山 牧水わかやま ぼくすい

明治18年―昭和3年
歌人
宮崎県生まれ
本名繁

「創作」の編集に携わり、自然主義文学としての短歌を推進する。 明治44年創作社を結成主宰。旅を愛し、自然を愛し、酒を愛した。太田水穂を頼って上京した太田喜志と 出会い結ばれたことで、塩尻と縁が深い。

若山 喜志子

若山 喜志子

若山 喜志子わかやま きしこ

明治21年-昭和43年
歌人
広丘村(現塩尻市広丘吉田)生まれ
本名喜志

広丘小学校校長島木赤彦の下で教師を務めるが、赤彦のアララギの影響はない。 「信濃毎日」選者太田水穂に認められ、のち水穂を頼って上京。 水穂宅に寄留中、奇縁で若山牧水に出会い結ばれる。牧水没後は彼の創始した歌誌「創作」を継いだ。歌人潮みどり(太田きり)は妹。

太田 青丘

太田 青丘

太田 青丘おおた せいきゅう

明治42年~平成8年
広丘村(現塩尻市広丘原新田)に太田水穂の兄、嘉曾次の三男として生まれ、水穂の養嗣子となる
本名兵三郎

東京大学卒業後、法政大学教授となる。昭和40年、水穂の「潮音」を引き継ぎ代表となる。 漢詩の骨格のなかに、現代社会詠などの秀歌を残す。 宮中歌会始の選者、信濃毎日新聞の選者もつとめる。 12の歌集のほか、「新短歌立言」など評論も多数ある。

吉江 孤雁

吉江 孤雁

吉江 孤雁よしえ こがん

明治13年―昭和15年
仏文学者。詩人
塩尻町長畝(現塩尻市長畝)生まれ
本名喬松(たかまつ)

松本中学校(現松本深志高校)在学中より孤雁の号を用い、創作する。 早稲田大学高等予科に入学。卒業後研究生を経て大正4年教授となる。翌5年フランスへ留学し、帰国後早稲 田大学仏文科を創設にあたり主任教授となる。フランス文学・文化の紹介により11年フランス政府よりレジ ョン・ドヌール勲章を授与される。西条八十(さいじょうやそ)、井伏鱒二(いぶせますじ)、日夏耿之介 (ひなつこうのすけ)などは彼の教え子である。西条八十の追悼碑が彼の墓所にある。

窪田 空穂

窪田 空穂

窪田 空穂くぼた うつぼ

明治10年―昭和42年
歌人。国文学者
和田村(現松本市和田)に生まれる
本名通治

一時、片丘村の村上家の養子となる。太田水穂が和田小学校校長に赴任したことから交友がはじまり、晩年 まで続く。 「明星」に投稿した短歌が与謝野鉄幹に激賞され、スター歌人となった。 古典の評釈は特に評価が高く、昭和33年文化功労者となる。松本市和田に記念館がある。

島木 赤彦

島木 赤彦

島木 赤彦しまき あかひこ

明治9年―大正15年
歌人
上諏訪町(現諏訪市)生まれ
本名久保田俊彦

長野師範卒業後、明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会(広丘アララギ短歌会) を開き、中原静子らを育成する。早くから伊藤左千夫に傾倒し、「馬酔木」(あしび)に参加し、左千夫の 死後上京して「アララギ」の編集を担当し、斎藤茂吉・中村憲吉らと写実主義「アララギ」を歌壇の中核に 高めた。歌集に「馬鈴薯(ばれいしょ)の花」等があり、寂寥感(せきりょうかん)の漂う写実的な作風。 下諏訪町に赤彦記念館がある。

潮 みどり

潮 みどり

潮 みどりうしお みどり

明治30年―昭和2年
歌人
広丘村生まれ
本名きり

姉喜志子の影響を受け、歌を詠むようになる。義兄牧水に師事し、「創作」「潮音」に投稿を重ねる。 「創作」の有力メンバーであった長谷川銀作と結婚したが、結核にかかり31歳の若さでこの世を去った。 生来の多感さから柔軟で純粋な叙情歌を多く残したほか、画才にも恵まれていた。

四賀 光子

四賀 光子

四賀 光子しが みつこ

明治18年―昭和51年
歌人
長野市に生まれる
本名みつ

長野師範女子部を卒業後、教職につくが太田水穂を知り、作歌活動に入る。 東京女子高等師範卒業。後に水穂と結婚する。 はじめ若山牧水主宰の「創作」に歌を発表するが、太田水穂の「潮音」創刊とともに同人となる。 水穂没後は養嗣子青丘とともに「潮音」を守り、水穂の遺志を継ぐ。